「世界」とは

「主観的な現存在も客観的な現実性も統一的な世界像を形作ることはない」

                     ~ヤスパース『哲学』より~

 

 「世界」という言葉はなにげなく使われていますが、ちょっと考えるとその意味の範囲が意外と確定しにくいのに気づきます。「私」から見た「世界」は、彼もしくは彼女から見た「世界」とひとつに重なり合いません。たとえば、誰かが自分の子供がイルカが好きなのでよく水族館に連れていく、と話しているのを聴いている人がいるとします。この場合、話している人の子供から見たイルカと、子供を連れていく親の目から見たイルカと、話を聞いている人から見たイルカ、これらは確かに客観的に見れば同一のイルカであると推理できますが、それぞれの人から見られたイルカは同じイルカではないはずです。もし、同じいるかならば、その親も話を聴いた人も子供と同

じ熱心さでイルカを見たがるはずですが、そういうことはいつあるとは限りません。

 人間関係の中で一喜一憂するのは、「世界」というものは元来ひとつであるという盲信にどっぷり漬かっているからかもしれません。というのは、自分の信じている「世界」は当然、他人も共有できるし、共感さえ期待できるという前提に疑いをさしはさむことがないからです。

 それでは、自分が見、自分が感じるこの自分の「世界」を可能な限り削って、万人が賛同するような一般的な「世界」だけを信じて生きれば、誤解も生じないし、落胆も減るだろうと考えたとしても、今度は、この自分が生きているという感覚が希薄になってしまい、いわゆる「生きる意味」を喪失してしまいかねません。

 私たちは、かたつむりのように自分の「世界」を背負って他者と関わっているのかもしれませんが、ヤスパースのいうように、自分だけの世界を絶対化することもできませんし、まして、自分の殻を脱ぎ捨てて何か客観的な世界そのものだけで生きていくこともできない、その中間のところで、悩みを抱えながら生きるのが本当の姿だといえるのかもしれません。しかし、同時に、各人がかたつむりの殻のようなそれぞれの「世界」を背負って生きているのだという自覚があれば、生きている中で感じる悩みにもそれなりの味わいが添えられるのではないでしょうか。

f:id:michelpoyo:20180421011335j:plain