幼児期の飢えについて

 幼児期のトラウマがその後の人生に影響を及ぼすことは、すでにフロイトが指摘しています。昔、高校時代の英語の副読本に、コップからどうしても水が飲めない若い女性がフロイトのクライアントとしてやってきて、それが、両親がいないときにメイドの女性が犬にあげた水をコップで子供時代のこの女性に与えようとしていたからだと催眠療法であきらかにしたとたん、この女性が再びコップから水を飲めるようになったというお話が書かれてあったのを思い出します。

 トラウマ的な出来事はきわめて圧倒的な力で体験する者に影響を与えますが、ここからイメージできるのは、非常に特異で一回限りの出来事のように思えてくるのは私だけでしょうか。たとえば、誘拐されたり拉致されるような体験、大地震など自然災害の体験など。それで、大部分の人は自分がそういう特別な体験をするはずがないという思考回路をたどりがちになり、自分自身の中に残存しているトラウマ的な力から解放されにくいと思われます。

 たとえば、トラウマ的な体験が日常的な出来事で、しかも長期にわたってなされたものであると、精神生活に与える影響は甚大であるにもかかわらず、本人が自分自身のつらさに気づく可能性はきわめて低くなるのではないでしょうか。

 幼児期に十分満足に食べさせてもらえなかったという体験は、途上国においては当たり前の出来事だし、ここ日本においても最近では格差社会のあおりをうけて多くの子供たちが栄養不良に陥っているので、トラウマ的体験のテーマにするにはあまりにもあふれすぎているのとおおかた思われるでしょう。

 親が子供の栄養に気を配らないなら、たとえば母乳で足りない部分を粉ミルクで栄養補給することを思いつかないか、粉ミルクを赤ん坊が飲みやすい温度にして提供することを面倒くさがったりして、十分に栄養を与えないかもしれません。また、離乳食の時期の子供への食事の世話は気長になされなければならないので、子供の食べるスピードの遅さにいらいらして途中で打ち切るか、子供の食べられない大人用の食事を与えるなどして、その結果、子供に栄養が行き渡りません。

 そうすると、一人の子供がここにいるとすると、乳児期から幼児期までの3年から5年の間、ずっとその子は慢性的な飢えにさらされ、いつも青い顔をして、しかも栄養不良のため、ある意味、生死をさまようことになるのです。

 大人になっても自分が何を食べたいか口に出して主張するよりも、一晩くらい食べなくてもそのほうが平気で、またほっとするという人がいるとすれば、きっとその方は乳児え期から幼児期にかけて、十分に親から食事を与えられず、いわば「飢え」と親しんでいた方に違いありません。

 また、小学校時代のマラソンの季節が来るのが恐ろしいと感じていた人も、慢性的な栄養不良状態に置かれていたに違いありません。栄養不良の結果、スタミナが不足し体力がマラソンに耐えられるものでないからです。

 幼児期の飢えの体験をされた方の心の底には、また、そういう状態においた親への恨みが蓄積して、これが自分の親ではなく、配偶者に向けられ、配偶者を飢えの状態に置こうと無意識に行動します。そして、自分も十分に食べられないが、それ以上に配偶者などが食べれないのを見ることが親への復讐の代用となるのです。

f:id:michelpoyo:20180505230035j:plain

 

嫉妬について

 嫉妬、英語でenvyというのでしょうか、これはキリスト教では七つの大罪のひとつに数えられている、それほど倫理的にも宗教的にも重大な咎のひとつです。envyの意味には「嫉妬」のほかに「羨望」という意味もあります。要するにねたむ以前に羨み欲しがる心理とひとつながりになっているのです。

 どういうときにこのenvy(嫉妬・羨望)の念が強まるかというと、私の経験では同業者や同じ年齢や同じ経歴の人がそばにいるときに、この嫉妬・羨望の念が心の中で燃え上がりやすいのではないかと思います。たとえば女性の場合、同じ世代で結婚が決まった女性に対して同年齢のまだ結婚未定の女性は心の動揺をきたすかもしれません。私の場合もかつて大学院で勉強していたので、同じような経歴の持ち主でその世界でうまくいっている人と近くにいたら心の動揺を隠すのに一苦労でした。しかもあさましいことに、嫉妬・羨望の念の裏側に潜む劣等感を補うために、成功している相手の価値を切り下げよう切り下げようとしている自分に気づくのです。相手を自分よりなんらかの形で下に貶めないと心の平静さに戻れないのです。

 嫉妬・羨望の念はこの世にいながら、自分自身を地獄の炎で焼いてしまいます。しかも、この苦痛には何の報酬もないのです。

 嫉妬・羨望の念から完全に解放されることはないにしても、少なくとも、それをある程度減らしたとき、あのころの自分はなんて不自由だったのだろうと自覚することができるのではないかと思います。

f:id:michelpoyo:20180502000004j:plain

 

百万回生きた猫

 確か有名な絵本に表題のような作品があったと思いますが、猫を飼っていると、フィクションではなく現実のことのように思われる体験が少なくありません。と申しますのは、あくまで主観なので、客観的な証明や証拠があるわけではありませんが、うちにいる猫の過半数は以前に飼っていた猫の生まれ変わりのような気がします。自分の中では気がするどころではなく、確信があります。ただあくまで確信なので、人に説いて聞かせるような話ではありませんが。

 昔ジョルジュという名前の白猫がいたのですが、5歳くらいで若死にしてしまいました。その猫の特技というか趣味はカーテンレールの上から床に寝転んでいる飼い主のお腹めがけてダイブすることでした。いくら小柄な猫と言っても2メートルも上からダイビングされれば、それなりの衝撃もあり、いつ何時やられるかしれないので、戦々恐々としていたのを覚えています。

 そのジョルジュの臨終のときのことです。息を引き取った直後に、ほかの猫がカーテンレールから私めがけてダイビングしてきたのです。この猫はカーテンレールからの決死のダイブをそれまでしたことは一度もなかったのに。まるで、死んだジョルジュが飼い主に何か知らせを持ってきたような気がしました。

 下の写真の猫は現ジョルジュです。この猫との縁も不思議で埼玉のある猫カフェ兼ブリーダーをされたいる方のところで猫を譲ってもらいに出向いた折に、いきなり外に脱走してきた猫で、脱走癖のある猫で、その猫カフェのご主人は手を焼いていまして、私に引き取ってもらえないかとちょうど脱走の現場で提案された結果、うちの猫になったといういわれがあるのです。

 理性では合理的な説明や根拠は示せませんが、猫やその他の生き物に関しては、何か第六感のようなもので納得しています。

f:id:michelpoyo:20180501233531j:plain

前回の補足

 前回、表題に「二つのこと」と書いたのに、不思議な体験は一つしか書いていなかったことに気づいたので、補足としてもうひとつのことを書いておきます。

 こちらは前回のようにはっきりした出来事ではないのでうまく伝えられないかもしれません。

 あれは私が小学校6年生くらいのころでした。時期は1972年から1973年ころのこと。母と弟と私は母の仕事の都合で山口の片田舎に引っ越して間もないころです。私は新しい学校や新しい環境になじめず、おまけに第一次オイルショックの真っ只中で母子家庭にとっては経済的に厳しい生活を強いられていました。私はいろいろとストレスが重なって、重いジンマシンや皮膚病を年中患っていました。

 そんなある夕方、季節は4月下旬から5月くらいの暖かいときだったと思います。母と弟と私は三人連れ立って自宅に帰る途中のことでした。路地の奥に家があったのですが、もうあと10メートルもすればつくというとき、家々の屋根の向こうに灼熱した鉄球のようなものが音もたてずにすーっとこちらのほうに向かって飛来してくるのを目撃しました。目視ではサッカーボールくらいの大きさに見えました。西の空を低空で滑空してそのまま屋根の向こうに沈んでいきました。この間わずか5秒くらいでしたでしょうか。私は思わず「あれ何?」と声を挙げたのですが、そのときはもうこの物体は消えてしまっていて、母も弟もそれを見ることはなかったのです。

 翌日、私は新聞に隈なく目を通したのですが、どこにも隕石が落下したなどという記事はありませんでした。当時、私はそれが隕石であることを疑いませんでした。なので、少なくとも数百メートル離れた距離でサッカーボールくらいの大きさに見える赤黒い物体の正体が隕石ならば、相当大きな隕石に違いなく、新聞記事にならないわけはないと決め込んでいたのです。

 不思議なのは、その見えていた数秒間、相当近くを飛んでいたのにちがいないのに、風を切る音がまったくしなかったことです。まるで空というスクリーンに映像を見るような具合でした。それでも、その物体はとてもリアルでしたし、あくまで自然現象の一部であり、火の玉のような超常現象とは思われませんでした。

 ひとつの解釈としては、思春期に差し掛かるころの私の心理状態がそのような不思議な物体を外界に投影した結果自分に見せたのかもしれないという説ですが、それにしても、あの物体はとてもリアルすぎて、たんなる心理の外界への投影と言われても、心の奥底では納得できません。

f:id:michelpoyo:20180501231355j:plain

不思議なこと、二つ。

 あれは私が高校2年生の6月ごろでしたから、今からもう40年近く前になります。その前年から私は虫垂炎の兆候が出ていたのですが、そのつど注射で抑えていました。それが17歳になったばかりの6月のある朝、猛烈な下腹部の痛みに突如襲われ、吐き気も止まらない症状に見舞われました。どういういきさつかわかりませんが、それでも私は登校して学校の授業を受けました。一時間目は英語でした。当時、私はクラスでも変人で通っていたので、本当は腹痛で体が揺れているのに、英語の先生も、周囲のクラスメートも私の様子をスルーするだけでした。二時間目になるとさすがに腹痛も度を越したものになり、体育の先生に見学させて下さいと頼みに行ったのですが、英語に出席したのなら体育にも出ろ、体育も英語と同じ授業なんだからという論理で見学の許可は出ませんでした。しかもその日は1000mのタイムを計るというテストの日でした。私は痛みが長引くより、早く走り終えて試練を早く終わらせようと一生懸命走りました。なのでお笑いになりますが、その日の1000mのタイムは自己ベストだったのです。

 それから後のことはよく覚えていません。保健室に駆け込み、帰った方がいいんじゃないと保健室の先生に言われ、徒歩で約1kmの家路をとぼとぼ帰りました。その後は昼飯を採るために帰宅した母に町医者に連れて行かれ「たんなる腹痛」という診断を受け再度帰宅。症状は悪化の一途をたどるばかりなので、ついに町で一番大きな総合病院に運び込まれました。

 即手術ということになり、背中に麻酔の注射を打たれ、腹部を切開、盲腸を除去され、手術は成功裏に終わりました。あとで聞いたところでは、あともう少し遅かったら盲腸が破裂し、腹膜炎一歩手前だったそうです。

 手術後6人部屋のドア側のベッドに寝ている自分に気づいたのは麻酔が覚め始めた夕方7時くらいだったでしょうか。もう食事時間が終わったのか、夏至に近いころなのでまだ明るさは残っているのに、廊下はとても静かでした。室内には20代から50代くらいまでの男性患者が漫画の週刊誌を読んだり、ラジオを聞いたり小型テレビに見入ったり、各人各様でした。私は麻酔が醒め始めたせいか、下腹部の鈍痛が無視できなくなっていました。

 そんなとき、廊下から室内のドアに、身長150cmもない小柄な老婆が現れました。手には風呂敷包みを持っていて、なにより人目につくのは、全身白装束だったことです。顔つきはどうでしたでしょうか。今思い出そうとしているのですが、しわは多かったがどこか上品な顔立ちだったような印象があります。私は他の患者さんに用事のある人だと思っていたのですが、そのおばあさんは、ドアから静かに私のベッドのほうに向かってきて、私のベッドの横に立ちおじぎをしました。それから風呂敷包みを開けて中からお祓いの道具を取り出し、説明も理由も言わずいきなりお祓いを始めました。5分間ぐらいお祓いをすると、最初と同じようにお辞儀をし道具を風呂敷に包んでドアから出て行きました。

 私はここ山口県の片田舎に住み始めたのは小学校5年のときでしたから、なんとなく、この地方でこういう習慣があるのかなと自分の中でこの出来事を合理化していました。ただ、あとで考えると腑に落ちないことも少なくありませんでした。第一、白装束の人が病室に入ってきて、同室の他の5はまったく無反応だったこと。その後、母や親戚に聞いてもはっきりした事情がわからなかったこと、などです。

 それでも、病室に白装束の老婆がいきなり現れるとなるとカーテンでベッドごとに仕切っているわけではないので丸見えになのですから、目を上げるとか目を丸くするくらいの反応があっても不思議ではないどころか、無反応のほうがよっぽど不思議です。

 その日の手術では一歩間違えれば私は寿命を終えていたのですから、このような体験をしてもおかしくはないかもしれません。いわば臨死体験のようなものです。

 しかし、あの白装束のとても小柄なおばあさんの印象はと聞かれると、幽霊やお化けに出会ったときの恐怖はまったくありませんでしたし、今も恐怖を感じることはありません。むしろ、むしろその物腰の凛とした上品さと親しみだけが残っています。

f:id:michelpoyo:20180428002448j:plain

昭和を繰り返す

 私は昭和30年代生まれなので、当時の映像や物を見ると、とても懐かしくなります。37年というと日本は高度成長期の後半で、その前後に東京オリンピック大阪万博がありました。高度成長期と言っても、私は当時福岡と熊本の県境の小都市に住んでいましたので、景気の良さだけでなく、東京や大阪などの大都市の景気の反動というかひずみというか、成長の影の側面も押し及ぼされてきていたように思います。たとえば、市の面積の大半を占めていたのは三井系の工場とその子会社でした。羽振りのよいのは、この三井系の本社から出向していた社員や工場の上層部のごく一部の人々だったのではないかと思います。あとはピラミッド式階層のごとく、中枢の工場の正社員から末端には炭鉱労働者、さらにその下には、大人たち「ほいと」と呼んで蔑んでいたホームレスやその日暮しの経済的弱者のグループがありました。

 今でも思い出しますが、小学校低学年のころの友人のうちに行ったとき、ほとんどバラック作りの家々のひとつで、うちも貧しかったのですが、友達の家のどん底の貧しさに戦慄を覚えたこともあります。

 と同時に、小学校2年生あのころのクラスメイトには勉強のできる三人の男子がいたのですが、そのうち一人は開業医の子息で、その子とは特に仲がよかったわけではありませんが、何かの用事でその子のうちの前に行ったとき、その子のお母さん(つまり医院長夫人)が日産のスカイラインを車庫から出すところを目撃してなんてかっこいいんだろうと感動したことが思い出されます。下校途中で酔っ払って下着だけのおじさんが殴り合いの喧嘩をしているのを道の端に避難しながら家路を急いだことを思い出すと、この街での格差社会の息吹きを毎日呼吸しながら成長していたのだなと感慨深く感じます。

 この市は有明海に面していたのですが、その港に近い場所には三井グリーンランドという今で言うところのテーマパークがありました。そこは芝生がいっぱいに敷き詰められていて、そこへその夜連れていってもらったとき、ライトに光る噴水がとても幻想的だったことをおぼえています。同居していたおじに連れて行かれたのですが、私は冷たい夜気のすがすがしさの中で噴水に見入っていたちょうどそのとき、向こうのほうにゲストハウスのようなものが窓から明るい光を夜の闇になげかけていました。内部には(子供の私にそう映ったのですが)上流階級の服装をした大人たちが複数いて、その中におじもいたかもしれません。

 市の中心を流れる河の水は赤・青・黄色・オレンジ・紫茶色・緑・銀色とまるで24色の色鉛筆のように時事刻々変化するので子供心には「きれいだなー」と見るのが大好きでした。その強烈な薬品臭も慣れると変に魅惑的な臭いに感じました(今思うと中毒性の廃棄だったのではないかと思います)。三井グリーンランドの一面の芝生とこの河はまさにさきほども述べた格差社会のシンボルだったのかもしれません。(テレビでサンダーバードというのをやっていて、私は人形たちがしゃべる妙にしゃれたせりふが英語だと思い込んでいた時期がありました。それはれっきとした日本語なのですが…)

 ある晩、もう子供は寝る時間だったと思いますが、これからカラーテレビを見せに知り合いのところに連れていってやるというのです。私は別に興味はなく、むしろ眠かったので外出など本当はいやだったのですが、逆らえないのでそのままおじが運転する自転車のうしろの台車に乗り20分以上硬い台車の痛みに耐えました。ほんとのことをいうと、カラーテレビのことはまったく記憶がありません。覚えているのはおじがこぐ自転車をまばらに通る自動車が後ろからライトで明るく照らしては追い越すごとに、おじと私は前よりも深い夜の闇に取り残されることだけでした。

 もしかしたらおじは、この街の上層部の人々に激しい羨望の念、あるいは嫉妬の念を持っていたのではないかと今この年になって思います。貧しさや能力を発揮できない境遇のため心の中に深く根を張った劣等感が、経済的な豊かさへの憧れを育み、経済的な価値だけが唯一と価値と呼べるものであるという信念を形成したのではないか、こんなファンタジーに今思いを馳せてしまいます。

 その後、おじは会社を設立しましたが、株に失敗して倒産を余儀なくされます。ちょうどオイルショックの時期でした。

 同居していただけに、子供時代のおじから受けた影響は小さくありません。今、私の中にある劣等感や成功して人への羨望の念は、果たして自分本来のものなのか、それとも、おじの感化によって、私の心に移植されたものなのか。今平成の格差社会になって再び昔日の出来事をなんとはなしに思い出しました。

f:id:michelpoyo:20180427002804j:plain

 

 

 

二つの表象(イメージ)

 人間の精神的発展は、それに現実が対応するような表象と真実でもなく純粋に心理的な出来事であるところ表象との間に存する相違を自覚することのない段階を経てきた。未開民族について私たちがいろいろ耳にするところでは、彼らは、覚醒時において感じるのとまったく同じ現実性と結論を夢の中の出来事に付与するという。また、たとえば聖霊が降臨すというような最高のイメージも、彼らにとっては五官を通して知覚できるのと全く同じリアリティを持っている。さらには彼ら未開民族の人々は、自分のイメージを喚起する心的表象を現実の今ここと区別すべきであるなどという自覚をもたない。文明化された民族においても、子供たちのあいだで同様の現象を見ることができる。子供たちにとって、今演じられた劇や語られたおとぎ話を聴いて涙を流したのに、それが現実でないことの理由を明瞭に理解できないし、子供たが自己中心的にキレて人形を殴ってしまったその人形が本物の人間ではないなどと理解できない。3歳の子を楽しませるため大人が紙から人の型を切り出そうとしているとき、紙人形を急いで切り出そうとしたため、紙人形の手足をはさみで切ってしまいそうになると、子供はどっと泣き出すあ。また、母親が自分を置いてけぼりにして去っていった夢を見たばかりの子供は目が覚めるとそのことで母親を最大限責め立てる。            

                        ~ジンメル倫理学序論』~

f:id:michelpoyo:20180422024843j:plain

 

 

 私たちは、イメージや枠組みや方向付けなどでもってあらかじめ生の現実を加工したあとに、現実とかかわりを持つことが多いのではないかと思います。たとえば受験生が2月や3月に大学に足を運ぶのは受験のためであって決して「足があるから」という理由は正当な理由になりえません。なぜなら、私たちは、頭脳やハートの中であらかじめ現実をイメージ化し、自分の目的実現のために一定の方向にあらかじめ整理された現実のイメージを手がかりとして現実に立ち向かうからです。イマジネーション、想像力は人間を他の動物ともっとも明確に区別するしるしのひとつです。また、想像力がなければ私たちは現在から未来に向かって進むことは予想以上に困難を極めることになるでしょう。というのは、イマジネーションがなければ、私たちは「瞬間」という無限に小さな時間の一点に意識を閉じ込められ、とても人間らしい生き方なぞ望めなくなるでしょう。

 しかしながら、私たちが忘れてならないのは、この想像力には二種類あるということです。つまり、私たちの頭脳に浮かぶイメージも、現実の鏡としてのイメージと、現実がその背後にまったくない純粋に想像の産物としてのイメージの二種類です。

 しばしば、現実には何物も対応物を持たない空想にすぎないイメージのために私たちは絶望に陥ったり有頂天になったりしていないかどうか点検する必要があります。