昭和を繰り返す

 私は昭和30年代生まれなので、当時の映像や物を見ると、とても懐かしくなります。37年というと日本は高度成長期の後半で、その前後に東京オリンピック大阪万博がありました。高度成長期と言っても、私は当時福岡と熊本の県境の小都市に住んでいましたので、景気の良さだけでなく、東京や大阪などの大都市の景気の反動というかひずみというか、成長の影の側面も押し及ぼされてきていたように思います。たとえば、市の面積の大半を占めていたのは三井系の工場とその子会社でした。羽振りのよいのは、この三井系の本社から出向していた社員や工場の上層部のごく一部の人々だったのではないかと思います。あとはピラミッド式階層のごとく、中枢の工場の正社員から末端には炭鉱労働者、さらにその下には、大人たち「ほいと」と呼んで蔑んでいたホームレスやその日暮しの経済的弱者のグループがありました。

 今でも思い出しますが、小学校低学年のころの友人のうちに行ったとき、ほとんどバラック作りの家々のひとつで、うちも貧しかったのですが、友達の家のどん底の貧しさに戦慄を覚えたこともあります。

 と同時に、小学校2年生あのころのクラスメイトには勉強のできる三人の男子がいたのですが、そのうち一人は開業医の子息で、その子とは特に仲がよかったわけではありませんが、何かの用事でその子のうちの前に行ったとき、その子のお母さん(つまり医院長夫人)が日産のスカイラインを車庫から出すところを目撃してなんてかっこいいんだろうと感動したことが思い出されます。下校途中で酔っ払って下着だけのおじさんが殴り合いの喧嘩をしているのを道の端に避難しながら家路を急いだことを思い出すと、この街での格差社会の息吹きを毎日呼吸しながら成長していたのだなと感慨深く感じます。

 この市は有明海に面していたのですが、その港に近い場所には三井グリーンランドという今で言うところのテーマパークがありました。そこは芝生がいっぱいに敷き詰められていて、そこへその夜連れていってもらったとき、ライトに光る噴水がとても幻想的だったことをおぼえています。同居していたおじに連れて行かれたのですが、私は冷たい夜気のすがすがしさの中で噴水に見入っていたちょうどそのとき、向こうのほうにゲストハウスのようなものが窓から明るい光を夜の闇になげかけていました。内部には(子供の私にそう映ったのですが)上流階級の服装をした大人たちが複数いて、その中におじもいたかもしれません。

 市の中心を流れる河の水は赤・青・黄色・オレンジ・紫茶色・緑・銀色とまるで24色の色鉛筆のように時事刻々変化するので子供心には「きれいだなー」と見るのが大好きでした。その強烈な薬品臭も慣れると変に魅惑的な臭いに感じました(今思うと中毒性の廃棄だったのではないかと思います)。三井グリーンランドの一面の芝生とこの河はまさにさきほども述べた格差社会のシンボルだったのかもしれません。(テレビでサンダーバードというのをやっていて、私は人形たちがしゃべる妙にしゃれたせりふが英語だと思い込んでいた時期がありました。それはれっきとした日本語なのですが…)

 ある晩、もう子供は寝る時間だったと思いますが、これからカラーテレビを見せに知り合いのところに連れていってやるというのです。私は別に興味はなく、むしろ眠かったので外出など本当はいやだったのですが、逆らえないのでそのままおじが運転する自転車のうしろの台車に乗り20分以上硬い台車の痛みに耐えました。ほんとのことをいうと、カラーテレビのことはまったく記憶がありません。覚えているのはおじがこぐ自転車をまばらに通る自動車が後ろからライトで明るく照らしては追い越すごとに、おじと私は前よりも深い夜の闇に取り残されることだけでした。

 もしかしたらおじは、この街の上層部の人々に激しい羨望の念、あるいは嫉妬の念を持っていたのではないかと今この年になって思います。貧しさや能力を発揮できない境遇のため心の中に深く根を張った劣等感が、経済的な豊かさへの憧れを育み、経済的な価値だけが唯一と価値と呼べるものであるという信念を形成したのではないか、こんなファンタジーに今思いを馳せてしまいます。

 その後、おじは会社を設立しましたが、株に失敗して倒産を余儀なくされます。ちょうどオイルショックの時期でした。

 同居していただけに、子供時代のおじから受けた影響は小さくありません。今、私の中にある劣等感や成功して人への羨望の念は、果たして自分本来のものなのか、それとも、おじの感化によって、私の心に移植されたものなのか。今平成の格差社会になって再び昔日の出来事をなんとはなしに思い出しました。

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