二つの表象(イメージ)

 人間の精神的発展は、それに現実が対応するような表象と真実でもなく純粋に心理的な出来事であるところ表象との間に存する相違を自覚することのない段階を経てきた。未開民族について私たちがいろいろ耳にするところでは、彼らは、覚醒時において感じるのとまったく同じ現実性と結論を夢の中の出来事に付与するという。また、たとえば聖霊が降臨すというような最高のイメージも、彼らにとっては五官を通して知覚できるのと全く同じリアリティを持っている。さらには彼ら未開民族の人々は、自分のイメージを喚起する心的表象を現実の今ここと区別すべきであるなどという自覚をもたない。文明化された民族においても、子供たちのあいだで同様の現象を見ることができる。子供たちにとって、今演じられた劇や語られたおとぎ話を聴いて涙を流したのに、それが現実でないことの理由を明瞭に理解できないし、子供たが自己中心的にキレて人形を殴ってしまったその人形が本物の人間ではないなどと理解できない。3歳の子を楽しませるため大人が紙から人の型を切り出そうとしているとき、紙人形を急いで切り出そうとしたため、紙人形の手足をはさみで切ってしまいそうになると、子供はどっと泣き出すあ。また、母親が自分を置いてけぼりにして去っていった夢を見たばかりの子供は目が覚めるとそのことで母親を最大限責め立てる。            

                        ~ジンメル倫理学序論』~

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 私たちは、イメージや枠組みや方向付けなどでもってあらかじめ生の現実を加工したあとに、現実とかかわりを持つことが多いのではないかと思います。たとえば受験生が2月や3月に大学に足を運ぶのは受験のためであって決して「足があるから」という理由は正当な理由になりえません。なぜなら、私たちは、頭脳やハートの中であらかじめ現実をイメージ化し、自分の目的実現のために一定の方向にあらかじめ整理された現実のイメージを手がかりとして現実に立ち向かうからです。イマジネーション、想像力は人間を他の動物ともっとも明確に区別するしるしのひとつです。また、想像力がなければ私たちは現在から未来に向かって進むことは予想以上に困難を極めることになるでしょう。というのは、イマジネーションがなければ、私たちは「瞬間」という無限に小さな時間の一点に意識を閉じ込められ、とても人間らしい生き方なぞ望めなくなるでしょう。

 しかしながら、私たちが忘れてならないのは、この想像力には二種類あるということです。つまり、私たちの頭脳に浮かぶイメージも、現実の鏡としてのイメージと、現実がその背後にまったくない純粋に想像の産物としてのイメージの二種類です。

 しばしば、現実には何物も対応物を持たない空想にすぎないイメージのために私たちは絶望に陥ったり有頂天になったりしていないかどうか点検する必要があります。